長く、強い抱擁の後、遠坂はまるでスイッチが落ちたように眠ってしまった。
「ライダー・・・ごめんね、心配させて」
「いえ。今はもう一度こうして話せたことを、ただ喜びましょう」
桜の体を支えるライダーが、心底安堵したように笑みを浮かべる。
二人が今までどういう接し方をしていたかは分からないが、その間には確かな信頼があったのだろう。
それは先ほど戦ったライダー自身から、感じとれたものでもある。
「桜」
俺は鈍足ながらも、立ち上がって桜へと近づいていく。
「先・・・輩」
桜は一瞬笑顔を見せてくれたものの、恥じいるように顔を俯けた。
それはたぶん、魔術師という事を隠していたことに対する引け目だろう。
だが、俺にとってそんなことはどうだっていい。
「無事でいてくれて、よかった」
気の利いた言葉など出ずに、ただそれだけしか口に出せなかった。
なにしろ、泣きそうなくらい嬉しいのだ。
これ以上の事なんて言えない。
なにしろ、心の奥底から一番に思っている事だからだ。
「は・・・はい!」
桜は、一瞬だけ呆けたような表情をした後に、満面の笑顔でそう答えてくれた。
「感動の再開って所、悪いんだけどね」
ジャグラーが横から口を挟む。
彼女は先ほどの消耗からか、アーチャーに支えられている。
もはや自分で立つ力さえ残っていないのだろう。
「外と中での衝撃で、ここはもう崩れかけてるわ。
早いところ抜け出さないと、せっかく助かったっていうのに生き埋めになるわよ。
それと―――」
彼女の視線に釣られて、全員で見上げる。
上空には、円を描く深遠の闇。
「予想よりも安定したみたいね。
間桐桜という繋がりがなくなった以上、アレも消えてしかるべきなんだけど。
どうにかしないと、また新たにサーヴァントが現れるどころか、異世界の魔王が出たって可笑しくないわよ」
また、彼らのようなサーヴァントが現れる。
もし同じ様な事が起こったとしたら、消耗した俺たちでは対処する事はできない。
もちろん、必ずしも彼らのような敵対者が現れるとは限らないだろう。
だが、逆を言えば彼らの様な者達を呼び出したモノでもあるのだ。
このまま放置しておく訳にはいかない。
「そう長い時間この状態を維持できるとは到底思ないが・・・そうでないという保障もないな。
大聖杯ごとの破壊が望ましいが、今の我々にそれができるかどうかが問題だ」
苦い表情をしたまま、アーチャーが周りを見渡す。
確かに、この規模の建造物を破壊するとなると、膨大な力を必要とする。
そう、たとえば森の中で見た圧倒的な暴力であるとか、相対した流星が如き奔流の様な。
つまりは、サーヴァントにおける最後の切り札、宝具。
「・・・私がやろう。
ここも何時崩れるか判らん、先にここから脱出してくれ」
「何を言うのですか、アーチャ!
貴方は宝具の展開で現界するのがやっとの身でしょう。
ここは私が、」
「君とて、似たようなものだろう。
時間がない、凛を連れて早く外へ!」
セイバーとアーチャーが激しい言い合いを重ねる。
互いが互いの身を案じているが故の口論。
だが、俺の目から見ても疲弊した二人に宝具を使用する余裕は見えない。
それはランサー、そして俺と相対したライダーにも言えることだ。
「俺が・・・」
ならば、他の誰でもない、この時、この場所にいる、
「俺がやる」
「な・・・何を言うのですかシロウ!
ここは私が収めます、貴方は早くここから脱出して、」
「セイバーじゃ駄目だ。
いや、ここにいるサーヴァント誰だとしても駄目だ。
皆消耗してる。そんな体で宝具なんて使えば、生き残れないだろう」
「それは・・・シロウとて同じでしょう!
先ほどまで一人では立つことすらできない状態だったのですよ!?」
「体ならもう大分回復してる。
たぶん、後3、4回程度の投影なら問題なくできる筈だ」
それは嘘ではない。
確かに言われるように、先ほどまで歩くことすら間々ならぬ身ではあった。
だが、セイバーに支えられてここに来るまでの間に、ある程度は回復しているのだ。
「コレを壊すとなると大仕事だけど・・・その宝具にもいくつか検討はついてる。
完璧とはいかないと思うけど、機能停止に持ち込むくらいできる筈だ」
脳内に刻まれた数々の宝具を思い浮かべる。
その幾つかを用いれば、いかに巨大な物が相手でも破壊することは可能だろう。
問題を挙げるとすれば、投影はできても俺はその担い手ではないということ。
例えばセイバーの剣を投影したとしても、俺にはその出力を完全には再現できない。
そしてもう一つ、そもそも投影がうまくいっても、その力に俺の体が耐えられるか判らないということだ。
「今、他の誰かがこの役割をしたとしても、絶対に戻ってこれない。
でも俺だったら、たとえ数パーセントだとしても可能性は残ってる。
ここまできたんだ。今更誰かを失う選択肢なんて、絶対に選ばない」
いや、それが例えどんな時であれ、俺は自分以外の誰かを失う選択肢など選ばない。
その為に、その為だけにこの戦いに身を投じたのだから。
「シロウ・・・」
セイバーの顔が、辛そうに歪む。
何故だろうか、その表情を、俺は何度か目にすることがあった。
それは、俺が知らない何かに苦しんでいるように思える。
「ともかく、セイバー達は先に外へ出てくれ。
俺もこれを破壊したら直ぐに脱出する」
「それは、できません」
「セイバー!」
「貴方を失ってしまうのでは意味がない。
これはなんとしてでも私が、」
―――――いや、それは私の役割だ。
崩壊の音が響き渡る中、朗々たる声が、響き渡った。
振り向く。
俺達が来た道から、誰かがこちらへと近づいている。
あれほどあった焦りも、先ほどの一声で消え去っていた。
誰もが口を開くことなく、ただ“彼女”が現れるのを待っている。
「イ・・・リヤ?」
それは、確かに見知った少女だった。
聖杯戦争が始まって、まだその意味を深く理解できていない頃に来訪した、銀の髪をした少女。
だが、目に映るのは少女ではなく、白銀の衣を纏いし荘厳なる聖女。
「イリヤ?」
訳も判らず、再びその少女の名前を呼ぶ。
どこからどうみたってイリヤにしか見えないのに、俺には何故か別の存在に感じられている。
「シロウ、おつかれさま。
後のことはわたしがなんとかするから」
そう言って笑い、少女は俺の横を通り抜けていく。
それはいつもどおりの、俺が知っているイリヤだった。
「この門は、私が閉じる」
それが一瞬のうちに、他の誰かへと変わる。
「な・・・何を言ってるんだイリヤ!
これは俺が、」
「いいえ、これは聖杯である私が行うべき儀式。
開かれてしまったモノが何であれ、門を司るのがこの身の意味。
その役割を、他の誰に譲れるものではない」
その威厳に満ちた言葉は、少女の口から発せられた聖女の言葉。
それは、強制でも自発的な意思でもなく、運命と受け入れた様を伝えている。
「リズライヒ・ユスティーツァ・フォン・アインツベルン」
ぽつりと、ジャグラーのつぶやきに、聖女は足を止める。
その家名には、聞き覚えがあった。
「聖杯を閉じると言ったわね。
本来ならば、この聖杯は勝利者が扱うことを許されるもの。
それを踏まえるなら、門の開閉は大聖杯でも聖杯でもなく、別の人間が扱って行う筈。
何の魂も取り込んでいない貴方が、どうにかできる力が本当にあるのかしら?」
「その通りよ、我が仇敵の子よ。
門を扱う事ができるのは聖杯戦争の勝利者でなくてはならない。
そして、サーヴァントの魂を取り込んでいないこの体には、聖杯とは成りえない。
例えこの器を使い切ったとして、それが叶う保障はない」
サーヴァントの魂を取り込む、聖杯と成る?
正直、彼女達の会話に理解が追いつかない。
だがそれでも、聞き逃せないものがあった。
「この器を、使い切る?」
「この身を捧げて、聖杯の暴走を制御する。
もとより、この体は聖杯と成るためだけに造られている」
捧げる。
それは決して難しい言葉ではなく、俺にも理解できる簡単なものだ。
だが、それ以上にどうしても認められないものでもある。
「ふざけるな!
何をどうするかは知らないけど、イリヤを犠牲にするなんてさせない!」
「・・・そうね、それじゃあ私達が破壊するのと大差はないわ。
イリヤ、貴方は本当にそうする為に来たの?」
少女は、無機質な表情で押し黙る。
ジャグラーの声で止めていた足を、再び彼女の声で進めだす。
「私では、決定的に魔力が足りない。
アインツベルンが施した回路が如何に優秀であれ、それを動かす力がない。
私では聖杯になれない。――――そう、私一人ならばだ」
足が、止まる。
少女の前には、囚われていた桜の姿があった。
「黒き聖杯の子よ、問おう、汝には力がある」
ゆっくりと、手を上げる。
「その聖杯に犯された身と、忌み嫌われる虚数の禁呪を以てすれば、この門を閉じることは可能だ。
その力を、汝は行使するつもりはあるか」
手が、桜の目の前へと上げられた。
それを、
それを、私は掴めない。
この蟲に犯された身体。
自分でも制御できない負の意識を用いろと、彼女は言う。
それは、あまりに恐ろしくて、怖い。
何しろ、この身体も、この魔力も、自分が一番忌み嫌っていたものだ。
それをいまさら扱えなどと、できる訳がない。
生まれたての子に、走れと、言っているようなものではないのか。
「サクラ」
俯いていた私の顔を、その声が掬い上げる。
「リンは、命を賭けて貴方を救ったわ。
その命をサクラはどうするの?
助けられたままで、何もしないの?」
見上げた先には、柔らかな少女の笑顔がある。
「大丈夫よ。
貴方と、わたしなら、きっとできるわ。
そうしてリンに、強いところを見せてあげなさい」
その笑顔に安堵を抱く。
眠る姉の顔を見て、恐怖は一瞬にして消えた。
私は再び顔を上げ、差し出された手を、
握った。
「はい・・・やります!」
瞳に、確かな意思を宿して、桜はそう言った。
「どうすればいいか、言わずとも判るわね」
「はい!」
イリヤの微笑みに、桜が力強く頷く。
同時に、桜の足元から黒い何かが生み出されていく。
それは体を覆い、広がっていく。
まるで―――――アゲハ蝶のように。
「わたしが聖杯となり、サクラがそれを満たす。
聖杯に、本来の流れを思い出させる」
二人を覆う膨大なエーテルの奔流。
それは月光に照らされて舞う、黒き蝶を思わせる幻想的なシーンだ。
「そして、この勝利者のいない戦争を終わらせる。
その全てを、眠らせる―――――」
――――それは困る。
荘厳な声が、先ほどと同じように響き渡る。
それは慈悲に満ちた神の使いのようでいて、罪人を裁く執行人のようでもある。
例えどんな喧騒の中でさえ、その声を聞き逃す事はないだろう。
いや、聞き逃す事などできない、そんな声だ。
それを、俺は何度か聞いた覚えがある。
硬い足音がコツコツと鳴る。
その音が近づくにつれ、俺たちが通った道から、男は姿を表していく。
それは思っていたとおりに、知っている神父の姿を作り出した。
「言峰・・・?」
呆然とした声で、男の名を呼ぶ。
それは郊外の丘にある教会の神父、言峰綺礼に他ならなかった。
「てめえ・・・」
つぶやきは俺ではなく、身を震わすような殺気と共に誰かから放たれる。
見れば、あの常に泰然としていたランサーが険しい表情で言峰を睨み付けていた。
まかり間違えれば視線だけで相手を射殺せると思うほどに。
「ほう、生きていたかランサー。
あの公園でラインが途切れた時点で、死んだものだと思っていたが」
「往生際が悪いんでな。
少なくとも、アゴで使われるだけ使われておっ死ぬだなんて性に合わねえ。
どうせ消えるってんなら、気にくわねえ野郎をこの槍で貫いてからだ」
「なるほど、アイルランドの英雄は口伝にあるとおり、生に意地汚いようだな」
その会話は馴れ合いの様にも聞こえるが、少なくともランサーに好感などはない。
いつも通りの口調で喋っている間も、こちらまで気を失いそうな殺気を放ち続けているからだ。
いや、それよりも気になる事がある。
今の内容からすると、二人は面識がある程度の話ではない。
彼等が契約していたのだとすれば、言峰は今迄姿を現さなかった、最後のマスターという事になる。
「いや、再会を祝うべきなのだろうがそのような暇はないな。
私が目的としているのはお前ではない」
そう言い終え、言峰は足を止める。
そして真っ直ぐに、聖杯を目の前にしているイリヤへと視線を向けた。
「約束が違うな、イリヤスフィール。
ここまでお前を連れてきたのは、聖杯の停止などという事ではない筈だが」
言峰は、出会った時と変わらない威圧感を持って、語りかける。
「契約は果すわ。
アナタがわたしをここに連れて行く代わりに、わたしは聖杯を元の形へと戻す。
ただ、その後に聖杯を停止させるだけよ」
「ああ、それが困る。
門としての機能はどうでもよいが、聖杯そのものを止めてもらっては私の目的は果せない」
「・・・どの道、その目的は既に破綻しているのよ。
サクラとジャグラーの干渉で、すでに聖杯は門を維持するだけの機構を成り果てている。
わたし達がそれを治し、聖杯が元の姿を取り戻しても、残るのは消耗した力と壊れかけた願望機でしかないわ。
アナタが望む“この世全ての悪”は、もう聖杯の中から押し流されてしまった」
その言葉で、初めて言峰の表情が歪む。
それは怒りと、落胆。
「では、聖杯はもはや」
「もうただの無色な力の集まりに過ぎないわ。
皮肉なことに、この異常で聖杯は正常になったのよ」
突き放した口調で、イリヤはそう答える。
会話の意味を理解できている訳ではないが、言峰が聖杯に関する何かを目的としていたのは分かった。
そしてそれが、もはや手に入らないという事も。
「・・・・・・」
崩壊の音が流れていくこの空間で、場違いな静寂が満たされる。
言峰は顔を少し俯けていて、その表情を読むことはできない。
だが、落胆は当然と言える。
マスターという事は、聖杯に叶えて貰う願いがあって戦いに参加するのが普通だ。
それが可能性が無くなったと知れば、悲しむのはごく当たり前の事。
俺はそれに、何故か強烈な違和感を覚える。
その居心地悪さの正体が気になったが、妙な寒気がその感触を押し流した。
緩慢に、揺らめくように顔を上げていく黒い神父。
その、表情は、
―――ゾクリ
背筋が、凍りつく。
怒りでもなく、悲愴でもなく、ただ事実を受け入れた感情のない顔。
・・・だというのに何故、俺はあの男にこうまで恐怖しているのか。
「ならば仕方あるまい。
私が再び――――染め上げるまでだ」
「? ・・・コトミネ、もしかしてあなた、」
イリヤの疑問が言い終わる前に、再び大地を踏む硬い音が鳴り響く。
背筋にナイフを貼り付けたような、寒気が体を震わせた。
言峰とは違う重圧と、誰と対峙した時よりも強い絶望感。
思い出す。
言峰は自身を前回の聖杯戦争の生き残りであると言っていた。
そして、ある男は自身を前回の聖杯戦争で受肉したサーヴァントだと言っていた。
その二つと、この状況が導き出す答えは、一つだ。
「ギルガメッシュ・・・」
影の中から現れた黄金の青年。
本人と言峰を除き、この場にいる誰もが、その存在に戦慄を抱いた。
古代メソポタミアに実在し、ウルクを収めた英雄王。
最強無比の敵が、最悪のタイミングで現れた。
「言峰」
先ほどとは違う意味での威圧感を持って、男は悠然と声を上げる。
それは崩壊の音を前にしても消えずに響き、この洞穴内を異質な空気で満たしていく。
「随分とつまらぬ舞台に上げてくれたものだな。
全くもってくだらぬ。おまえは我を道化の類にするつもりか?」
「事が予想外の方向に進んだのは、何も私の責ではない。
マキリの尚早な行動が巻き起こした事態だ。
むしろ互いに食い潰し合った現状は、理想的とも言えよう」
ギルガメッシュの憮然とした態度は変わらない。
この状況がよほど不本意なのか、戦いの意思を見せるどころか、あの金の甲冑すら着ていないのだ。
「ともかく、あの聖杯を残して他を始末しろ。
私は聖杯を手に入れ、再びアンリマユを降ろす」
その言葉で、一斉に俺等は身構える。
如何にこちらが数で勝っているといえど、疲弊した身では有利とは言えない。
いや、そもそも森で見せた力を考えれば、例え全員が完全だとしても勝利できるかどうか。
あの財を目の前にして数は意味を成さない。
対抗したいなら、アレと同位の力と数を持って対抗するか、耐え切れる防壁を用意するくらいでなければならない。
せめて体力を消耗していなければ、逃げることくらい可能だっただろうに。
どう考えても、最悪なタイミングだ。
そう、絶望的な心象に追い込まれている間に、
「断る」
金色の男は、ただ一言だけそう言い放ち、マスターの命を拒絶した。
「何?」
「三度目はないぞ。
このような道化の芝居、我が手を下すと本気で考えていたのか」
そのあまりにも尊大な答えに、言峰はただ苦い表情をする。
主従が逆転したかのような関係。
あの男を御しきれる人間など、それこそ太古の時代をしてもいなかったのだろう。
「令呪でも使うか?
我は構わんぞ。如何に受肉したといえど、それには逆らえんからな」
「・・・・・・」
サーヴァントに対する絶対命令権。
だが言峰はそれを使おうとはせず、重苦しく黙る。
使わないのではなく、使えない。
あの殺気を目の前にしたら、令呪の素振りなど見せた瞬間に首が落とされる。
「もはや聖杯は現れず、現れたとしても我が納めるに値するとは思えん。
此度の舞台には興味は失せた。
ならば我の城で酒でも飲み干していた方が、幾分有意義と言えよう」
興味がない、それだけの理由でマスターの命を拒絶する。
サーヴァントとしてとんでもないやつではあるが、今はそれがありがたい。
このまま退いてくれるならば、こちらとしても都合がいいのだが―――
「だが、一つばかりするべき事があったな。
聖杯ではなく、手中に収めるべきものが」
そう言ってギルガメッシュは此方を、正確にはセイバーを見据える。
いや、その瞳には熱が籠っていて、見据えるというより愛でるという表現が正しく思えた。
・・・なんにしても、やはりそう都合よくはいかないらしい。
「もののついでよ、残りの雑兵どもの相手もしてやろう。
後は聖杯を得るなり、聖杯に成るなり、好きにするがよい。
なに、今際の一言くらい、耳を傾けておいてやる」
「・・・・・」
妙な空気を残して、ギルガメッシュは言峰から離れる。
悠然とした足取りは、確かに此方へと向かっていた。
「実に下らぬ再会となったが、もはやそれも些末な事だ。
さて、我が軍門に下る用意はできたか、騎士王よ」
丘を登りきって足を止めると同時に、ギルガメッシュは尊大に言い放った。
「・・・・・・」
「ふむ、どうやら心は決まっておらぬようだな。
我を十年も待たせたというに、戯けた女だ」
「世迷言を吐くな。
貴様相手に付ける膝など持ち合わせていない」
セイバーの強い拒絶。
だが隣にいる俺ですら気圧される強い殺気を、愉快そうに笑うだけであしらう。
完全に舐められている。
なにしろ森の中で見せた、あの金の甲冑を身に着けてすらいない。
それは慢心と取れるが、今この場であの男にだけ許される権利ではある。
もはや、この場にあの男を害せる人物はいない。
「何が気に入らぬ。
未だに聖杯の拘りがあるのならば、それこそ我の元へ下るべきであろう。
我の財は、我の臣下にのみその恩情を与えられる。
それならば聖杯もくれてやっても構わん」
「勘違いをするな、もはや私は聖杯に興味などない。
今私が行うべきは、この不吉の種にならんとする元凶を断つことだ」
「ほう?
あれほど聖杯を欲していたおまえがどういう心変わりだ。
・・・・・・何があったか興味が尽きぬな」
愉快そうに、ギルガメッシュは笑いをかみ殺す。
それが何かを思いついたように表情を変えると、予想外の言葉を口にした。
「だが、ここを破壊する程の余力が残っているようには見えんが・・・
ならばどうだ、この愚劣な釜、我が塵としてみせるか」
『――――!?』
この場にいる誰もが、そう、言峰すら含めた全員が、余りに言葉に息を呑んだ。
「おまえの望みを叶えてやろうというのだ。
その代償に、おまえは我に身を捧げればよい。
ああ、望むのであれば他の雑兵共の存在も許そうではないか」
セイバーが、苦い表情で押し黙る。
それはたぶん、あいつが確実に聖杯を破壊できる人物であるという事。
そしてなにより、俺達を生かすために唯一の手段となるからだ。
「・・・っ」
悔しそうに、歯を食いしばる。
肯定も、否定もできない。
葛藤に答えは出されること無く、体は動きを止めていた。
その姿を見て、俺はどうしようもない無力感と、そして――――――
「くっ、ははははははは!
よい顔をするではないか、騎士王よ!
我がこのような低俗な契約を、本気で口にしたと思ったか!」
我慢し切れなかったような、突然の哄笑。
彼女の苦悩を、ギルガメッシュは心底愉しそうに笑い飛ばした。
「おまえを娶るのは既に我の決定だ。
だからこそ、傅くのはあくまで我の力の前でなくてはならん。
笑え、セイバー。今のはこの十年で得た我なりの冗談だ」
その言葉で、セイバーの殺気が膨れ上がった。
それに続くようにして、俺たちも臨戦状態に身構える。
「ふむ、あくまで我を拒むか。
ならばよい。じっくりとその身に教え込むのみよ」
やつの背後が歪み、無数の武器が現れる。
空気が硬化し、戦いが始まる寸前になって――――
ギルガメッシュは初めて俺を見た。
「なにをしている、雑種。
この場から疾く去るがいい」
なんの興味もないと言わんばかりに、無表情にそう口にした。
「・・・なんだって?」
「我が相手にするのはセイバーと、残りの雑兵共よ。
ここから無様に逃げるなり、アレを止めるなり好きにするがいい」
雑兵ですらなく、目障りですらないと、俺から視線を外す。
眼中にすらない。だからこそ、好きにしろと言う。
それは、はっきりといえば侮辱ではある。
だが、この上もないチャンスと言えた。
俺ならば、ギルガメッシュが言うアレ・・・言峰をなんとかする自由があるという事なのだから。
今はどうか知らないが、こいつだって元サーヴァントだ。
話しを聞いた限りでは令呪の縛りもある筈だし、このまま戦うよりも可能性はある。
「シロウ!」
何も言わずに歩き出した俺を、セイバーの声が呼び止める。
そこいたのは歴戦の英霊の姿ではなく、何度か見た泣きそうな少女の表情。
「大丈夫だ、セイバー。言峰は俺がなんとかしてみせる。
だから少しの間、何とか耐えしのいで居てくれ」
「シロウ、しかしあの神父は・・・・・・シロウ!」
悲鳴にも似た叫びを背中にする。
俺は、振り返ることなく、言峰へと駆け寄った。
「あいつめ、妙な気でも使っているつもりか。
何時の間にそのような考えを仕入れたのか・・・」
「言峰、ギルガメッシュを止めろ」
全力で丘を降りて、立ち尽くしていた言峰に叫びたてる。
ボロボロの体はそれだけで息を荒くしていたが、それを気にする程の余裕もなかった。
「言峰!」
「奇縁な再会だな、衛宮士郎。
悪いが、無理な相談だ。
アレは私の命を聞くよう男ではない」
「・・・なら、令呪でも何でも使ってくれ。
この距離なら、気づかれる前に使える筈だ」
ごちゃごちゃになった思考を冷やし、言峰に語りかける。
正直、この説得にもならない言葉があいつに通じるとは思わない。
だが最善なのは戦いそのものを起こさない事。
無駄だと判っていても、俺にはこうする以外の選択肢はない。
「確かに、後の事を考えなければ可能かもしれんな。
だがそれをして私に何の得がある?
理想的とは言えんが、残ったサーヴァントはギルガメッシュが相手をする。
ならば、聖杯を得る為に私はおまえを掃除するだけでよい」
「っ・・・それだ、何だってお前は聖杯に拘る」
「ふむ、妙な事を問うな。
聖杯は全ての願いを叶える願望機。
生まれついてから欲望から逃げられぬ人間が、それを願わぬ筈はあるまい?」
当たり前の話である。
人間である限り、欲は生まれ、願いがある。
聖杯とはそれを叶える夢の宝具なのだから、求めて当然、むしろ俺のような人間が異端なのだ。
だが、
「違う、お前は―――」
考えての答えではなく、反動に近い言葉が口をつく。
そこで俺は、あの強い違和感に答えを得た。
なぜかは判らないが、俺はこいつが人並みの願いを持っているだなんて、信じられなかったのだ。
だからこいつがギルガメッシュと一緒に現れた時よりも、聖杯に執着を見せた時に酷く驚いていた。
この男には、
「お前は、聖杯に掛ける願いだなんて、持っていない。
そんなモノに、お前は全く興味なんて持っていない」
そう、根拠の無い確信があった。
「・・・・・・」
吐き気を催すような悪魔の笑みが、黒い神父の能面に張り付いた。
「血の繋がりがなかろうと、やはりの切嗣の息子か」
そして、あろう事か俺にとってもっとも意外な人物の名を口にした。
「――――――何?」
「環境が違えど、必ず同じ答えへと至る。
おまえと切嗣は紛れも無く親子と言えよう」
「いや、待て」
何故お前から、よりもよって親父の名前が出るのか。
「ほう、やはり知らなかったか。
考えてみればセイバーは私の存在は知っていたとしても、ギルガメッシュとの関わりまでは看破できていないのか」
ギルガメッシュ、第四次聖杯戦争のサーヴァント。
そして、それと契約していたという言峰。
数時間前に話した、同じく第四次にも召還されていたというセイバー。
そして、その彼女から語られた、衛宮切嗣というマスター。
それが、今になって繋がった。
「じゃあ、お前・・・」
「そうだ、私は第四次聖杯戦争に参加し、当然おまえの父親と相対した。
あの男の戦いは、理想的と言っていいほどに効率的だったぞ。
殺すべき相手を殺し、弱った相手を殺し、時には人質を取り、降伏した相手を殺した」
その声には、恨みのような意思と、畏敬のような信頼がある。
「如何に激しい戦いであれ、衛宮切嗣の戦いは必ず最小限の被害しか起こさなかった。
10人の為に1人を切り、100人の為に10人を切る。
素早く、確実に、淀みなく、分け隔てなく、少ない被害者を切り、大多数の人間を助けた。
最も慈悲に満ち、最も残忍な戦いをしたのが、衛宮切嗣、おまえの父親だった」
何時に無く饒舌に語る神父の言葉が、胸に刺さる。
セイバーから聞かされていた、衛宮切嗣の『正義の味方』という戦い。
切嗣は、確かに正義の味方である事に拘りを持っていた。
そう、正義の味方は、味方をした人間しか助けられない。
遺していったその言葉は、何よりも重い、自らが得た真実を語ったもの。
「その男を、私は強く意識した。
戦闘マシーンとしての、その技量にではない。
人間らしい情の為に、人間である事を自ら切り捨てたその生き方にだ。
私には聖杯に願うような望みがないと言ったな?
その通りだ、私にはそのような欲求はなかった。
いや、生れ落ちたときから、そんなものは持ち合わせてはいなかった」
愉快そうに語っていた言峰の言葉に、初めて激情が宿る。
それは、向ける先のない、運命を呪うような、怒りだ。
「判るか、衛宮士郎。
目的の為に人間を切り捨てた衛宮切嗣。
元から人間が欠落していた言峰綺礼。
そして、自身を失った衛宮士郎。
だからこそ、お前が私を看破したように、私はお前達に拘りを示した」
怒りの中に芽生える、同調。
この男は、俺と切嗣を軽蔑し、同時にそれを求めている。
「確かに、おまえと同じ様に、そしておまえが言ったように、私は聖杯などというものを求めていない。
私はな、他人の言う幸せというやつを理解できないのだよ。
愛情も、娯楽も、安息も、人々が幸福とするものは、私を満たすことはない。
だがただ一つだけ――――私は他人の不幸だけを悦ぶ事ができた」
そして、再び浮かぶあの笑み。
・・・ああ、俺が何故ここまでこの男を恐怖していたかが理解できた。
つまりは、この男が言うように、俺たちは似ていたのだ。
誰にも理解されず、そして理解を求めない、その孤立した生き方。
そこに親近感を覚えつつ、自分のような人間が別にいるだなんて思えなかったからだ。
ならば、言峰の言う言葉に嘘はない。
いや、今までに無いほどに様々感情を見せたこの男は、思えば嘘だけは付かなかった。
ただ、大事な事をだけを意識的に口にしなかっただけで。
「・・・・・・なら、なんで聖杯になんて拘るんだ。
願いもない。魔術師のような探求心や、勝利なんてのにも興味なんてないだろう。
それとも、ただ俺たちの苦悩を楽しんでるだけだって言うのか」
「もちろんおまえ達の絶望も、私の愉悦の一つだ。
だが、それが主目的という訳でも当然ない。
私が求めているのは、あくまでアンリマユだ」
「アンリ・・・?」
聞き覚えのない、いや、耳慣れない名を聞く。
そういえば先程にもイリヤの口からその名が出ていた。
「古代ペルシャの拝火教における、光明神に対する悪性の容認者。
最悪にして最大の反英霊、悪魔の中の王、それがアンリマユだ」
「そんな事は知っている。
どういう事だ、お前は聖杯を使ってそいつを召喚しようとでも言うのか」
「いや、それは既に第三次聖杯戦争にて召喚されている。
もちろん、それは悪魔などではない。
ただ人間によって祭り上げられた、人を呪うべく呪われたただの人間だ。
ただの人間に過ぎないそれは、戦いの序盤にて敗れ、聖杯の中に取り込まれた最弱のサーヴァント」
ますます判らない。
そこまで判っているのなら、何故そんなものを求めるというのか。
「だがな、それは人の願望を叶える無色の力である聖杯を、たった一つの“願い”で塗り替えた。
全ての罪を科せられ、悪であれと人に祭られた英雄が、聖杯をどの用に変えたか?
衛宮士郎。それは10年前の事故を見たおまえなら知っている筈だ」
その言葉で、一瞬にして目の前の光景が赤く変わる。
燃え盛る炎、どす黒い煙、倒壊した建物、平面になった人間、こびり付く血。
思い出されるのは、あの地獄のような現実。
俺が全てを失った、あの赤黒い世界。
「まさ、か」
「そう、アレがアンリマユに染まった聖杯が起こした奇跡だ。
願いの主はこの私自身。
完成直前の聖杯を手に、ただ切嗣への目くらましと、周りの住民をどこかへとやってくれという単純な願い。
それを、アレは大火災という形で実現した。
確かに切嗣とセイバーの目は眩み、そこにい居た人間達もことごとくが消えうせた。
アレは全く持って合理的に、現実的に、有り余るほどの悪意的に、彼等を殺したのだ」
まるで炙られたように、喉が渇く。
体中から汗が吹き出て、何故か乾いた質感を感じる。
ありありと思い出される情景。
呼吸さえできなくなるような、色を変えない記憶。
あれが事故ではなく、聖杯という奇跡が成した所業だというのか。
「そんなもの―――」
「そんなものを何故求めるか、か?
なに、10年前のあの大火災は、私になかなかの愉しみを与えた。
それがもう少し大きくなればいい、その程度の話だ。
数少ない、私の娯楽だよ」
愉しみ、娯楽?
大きくする?
「ふざけるな」
あれが、あのこの世の地獄が、そんなものであっていい筈がない。
「そうだ、二度とあんな事態を引き起こしちゃならない。
だいたい、さっきの会話を聞く限り、そいつはもう聖杯にはいないんだろう。
だったらお前の思惑も終わっている筈だ」
そう、だからもう終わりなのだ。
聖杯戦争も、聖杯にかける願望も。
もはや終わっているもの。
だというのに、何故言峰はまだ諦めていないのか。
「確かに、もはや聖杯からアンリマユは消えているだろう。
それは薄々に私も感じていた」
そして、笑う。
おかしな表現ではあるが、それは邪気の無い笑みだった。
絶望に伏した人を救う、希望を差し伸べる聖者の様な。
「だが、現世から完全に消失したという訳でもない」
言峰は自らの首元に手を掛ける。
その指を服に掛け、引き剥がすようにそれを引き裂いた。
現れたのは、神父には有るまじき鍛えられた肉体。
そして、
「・・・・・・穴?」
胸の中心に、空洞があった。
いや、それはカラではない。
少しの先も見えず、そこにはただ闇がわだかまる。
まるでもう一つの心臓であるように、赤黒い輪郭が、脈動していた。
そして何故か、俺はその闇を見て、あの黒き剣士を連想した。
「これがアンリマユだ。
切嗣に撃ち抜かれた心臓を塗りつぶすように、コレは脈動をし続けた。
コレももはや残りかすと言っても支障はない代物だが・・・・・・
元々無限とも言える聖杯を塗りつぶしたのは、たった一人の矮小な人間だった。
ならば、この体もろとも聖杯に捧げれば、再び黒き聖杯となるのも絵空事とは言えまい?」
絶句する。
こいつは、自分の命を捨ててまで聖杯を塗りつぶそうというのか。
「娯楽の為に、死ぬのか」
「元より一度は死んだ命だ。
それ以前に、どの道であろうが私の命はそう長くはない」
言峰はあっさりと、自らの死期を語る。
「聖杯が異常動作を起こした時点で、私の心臓はロウが如く溶け始めた。
これでも心霊医術には長けていてな、自分の寿命は手にとるように把握できている。
持って数十分か、数分。どうせ先は無い、自棄になって命を粗末に扱っても構わんだろう」
そう、どう見ても冷静にこの状況を愉しんでいる笑みを浮かべた。
ああ、この男は止まらない。
いくら口で説得しようとも、決してその生き方を曲げない。
非常に癪だが、俺達は似ているからこそ、互いを理解できる。
そして、だからこそ、自らの道を突き通す。
止めたいのならば、その息を、止める他にない。
――――ォン
後方に響く爆発音。
ギルガメッシュとの戦いが始まった。
もう時間も残されていない。
最後に、深く息をつき、肺にいっぱいになるまで吸い込んだ。
「言峰、俺はお前のする事を認められない」
「構わん、理解してもらうつもりなど毛頭ない」
拳を握る。
正真正銘、これが俺の最後の戦いになる。
「言峰、俺は聖杯を止めようとしてくれる、イリヤと桜を守る」
「私は彼女等を使い、再び聖杯を、そしてアンリマユを蘇らせる」
聖杯の停止と、復活。
互いの目的は相違。
どちらかが願いを叶えたいのならば、どちらかが消えなければならない。
「だから、俺はお前を倒す」
「故に、私はおまえを殺す」
引き金に手をかける。
お互いに疲弊した身体での、時間制限付きデス・マッチ。
それは、ある意味聖杯戦争に相応しい最後。
俺達は互いの願望を賭け、自らの全てを曝け出し、互いの敵へと駆けた。
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